リレーションの 概念化 |
人と人とのコミュニケーションには、関係性というものが、そのシチュエーションに微妙な作用を及ぼす。 ニコラ・ブリオーの提唱する「関係性の美学」は、表現者と鑑賞者と間にあるそういったものにフォーカスすることで、その意図を露出させるという手法が、ポストモダン以降の表現方法に大きな波紋を投げかけた。ギャラリーという体系化された状況設定の中で 展示されている、ある意味、非日常的なアートをもっと生活に密着させた日常的なステージに引っ張ってくるといった試みである。 オノヨーコが参加していた事でも知られる60年代ニューヨークの前衛集団、フルクサス。第一次世界大戦中のヨーロッパで巻き起こった”ダダイズム”という芸術運動の延長線上の”ネオダダ”と並び、反芸術とも呼ばれていた。 小杉武久、一柳慧や、ナム・ジュン・パイクなどの日韓系のアーティストも多く関わっていて、メディアアートの先駆けとも言われている。彼らの特徴である表現手段のひとつに「ハプニング」という形式がある。あえてコントロールをしない、偶発性というものをツールとしたその方法は、ジョン・ケージから作曲を学んだこともある芸術家、アラン・カプローの発案したものである。その方法論もやはりアートと日常との接点に目を向けている。 この5月10日に行われた僕とフィリップ・グリーとのコラボ「アクゥインティド:理解することは、知る事ではない」というイベントは、この「ハプニング」の可能性を取り込んだ参加型のインスタント劇場を目指した。日米のひとつの関係性である第二次世界大戦という背景をテーマにした2つのショートストーリー。その登場人物4人の延長をキャラ設定し、それぞれの台詞や行為指示を録音した4つのmp3プレイヤーを装着した参加者が、それを鸚鵡返ししたり演じたりすることで、ダイアローグ/モノローグを成り立たせ、物語が展開してゆくという仕掛けをつくりあげた。 場所は、今、ヒップになりつつある街、ブッシュウィックにあるギャラリーを体験型シアターに変換した。二つのスクリーンを背景にしたメインステージの他に2つのステーションを設置し、そこにmp3プレイヤーを置いた。ディレクターと化したフィルの指示に従って参加者が、そこでパフォーマンスをした。そのメインステージでの出来事は、記号化されたものや象徴的なイメージとともに投影され、それら全体を撮影し後方に設置されたスクリーンに映し出すという主体と客体との位置関係を換喩的にインタレーションした。 コラボレーションという共同作業の作法には、リスペクトが必要である。これは、自己表現というエゴがからんでくる動機とコンフリクトを起こしやすい。お互いのスキルを包括しうる「グッドアイディア」を考え倦ねた末がこの実験劇場であった。音楽面でも共作者を巻込みできるだけ幅や関わりをひろげるよう試みた。そのイベント自体をさらに「開かれた」状態にする為の試行錯誤でもあった。 現実味を帯びるアートは、その社会や風潮を反映しなければならない。都市ネットワークを高速で駆け巡ることが可能なこの情報社会の中での関係性が日常になりつつある昨今。一体それをどう捉え、メッセージとして提示することができるのか?作品の根底に潜むコンセプトは、そのカタチよりも重要だとすれば、次世代のアーティストは何をつくりあげていけばいいのであろうか? もくのあきおは、市立ブルックリン大学大学院でメディア・パフォーマンスなどを勉強しながら、ノイズバンドに参加している自称作曲家。 |
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