好評連載小説『トランジスタラジオ』

最終回

 喉の奥が熱い。涙も出てこない。何を考えていいのかわからない。ここはどこだろう。ぼんやりとした足取りで人の流れに身を任せて歩いていた。身が引き裂かれるくらい辛い。混乱。泣くのはいやだ。辛いのもいや。でも好き。どうしようもない。

 だから最初からやめておけば良かったんだ。傷つくことはわかっていたはずなのに。頭の別の方から冷たい声がする。違う、そうじゃない。その声を打ち消すもう一人の自分。人間の感情に間違いなんてない。簡単に制御できるものなんていらない。心がバラバラになる。あの人が好き。それしか分からない。

 突然、肩を強い力で引っ張られた。痛い。振り仰ぐと、目の中に飛び込んでくる、愛する人の、顔。

 「もうこういうのやなんだよ」

 目線を合わせないでユタカが言った。

 「俺はきっとお前を傷付ける。酷いこと、するよ。やめといた方がいい」

 頬をくすぐるユタカの息さえいとおしい。絶対に失いたくないと思った。ユタカを得られないのなら、何も得られないのと同じだ。平安な日々も月並みな幸せもそこにユタカが存在しないのなら何の意味も持たずに色褪せる。

 「そんなの、わかってたことだもの。もう、覚悟はできてるの」

 真っ直ぐにユタカの目を見据えて言った。ひどく落ち着いていた。

 「どんなになってもあなたが好きよ。きっと、そうよ。だからこの気持ちを殺すようなことだけはしないで。逃げないで、怖がらないで。大丈夫よ」

 次の瞬間、ユタカの胸の中に引きずり込まれていた。きつい抱擁。身体中にじわりと広がっていくこの感じが、きっと愛なんだろう。ユタカの腕は小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。すべての、彼を傷付けるものから彼を守るように香代子はその背中を抱き締めた。

 「ライブ、始まっちゃうよ」

 ユタカの胸に押しつけていた顔を少しずらして香代子が言った。自分を抱く力が強くなる。

 「もう歌わない。あそこには歌いたい歌がない。俺は俺だけのやり方で俺の歌を歌う。もういいよ。これでいいんだ。だからもう少しだけ、このまま‥」

 雑踏に紛れてかき消えたアイシテルは頭にかかる彼の熱い呼吸で香代子に届いた。今はただこうして傷付いた身体をぴったりと寄せ合ってお互いを癒すことに夢中だった。これからまた訪れる嵐に備えて、それはどうしても必要だった。もう一度、もう一度と繰り返す。愛してる愛してる愛してる。溢れかえるこの想いを何度も確認する。この間だけは、と永遠を夢見て香代子は瞼を閉じた。