ニューヨーク特派員報告
第216回

精神疾患をテーマとしたパフォーマンス


ソプラノ歌手でもあるレベッカが半年も前から企画していた精神疾患に関するイベントが先日行われた。彼女自身、幼い頃に同居していたおばあさんのアルツハイマーに悩まされていて、その言動などがトラウマになってしまっているようで、そういった経験をモチーフにした歌曲を作っていた。会場はKGBバーという、昔からビレッジにあるオフブロードウェイ劇場が多くあるストリートにある古いビルの3階で行われた。壁一面が真っ赤に塗られた古き良きロシア調の部屋やあったり、謎の器具などがガラスのケースに入っていたり、その不気味さが逆にシックな感じのベニューであった。随分前から予定が入っていたのにも関わらず、その日に演奏する曲の制作に取り掛かるまでに時間がかかった。理由の一つは、そのテーマの特殊さにもあった。人によって深刻でデリケートな問題でもあるからだ。と同時に、人間の深層心理の複雑さを垣間見ることができる興味深いテーマでもある。とにかくじっくり取り組みたい作曲であった。編成はピアノと電子音と最初から決めてあったが、具体的に何をモチーフにするかが問題であった。病気自体を扱うのはグロテスクな感じもある。

アイデアを探しふと本棚に目をやると「資本主義とスキゾフレニア」という文字が飛び込んできた。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『ミル・プラトー』である。このポスト構造主義の名著は、フロイト批判からアート批評まで幅広くかつ形而上学的に記されたかなり難解な哲学書であるが、インスピレーションの泉でもある。この書の中にあるフロイトと彼の患者であった通称ウルフマンとの関係性についての批判文がとても興味深く(やたらと肛門が出てくる)、それを元に3つの短いムーブメントの楽曲を作ることにした。

ウルフマンは、精神分析学者フロイトが心理性的発達理論を導き出すのに大きく貢献した症例研究論文の臨床観察の対象の鬱病の患者で、本名はセルゲイ・パンケイエフという。彼が子供の頃に見た、大きなクルミの木に6、7匹の白い狼が座って窓の向こうから彼を目つめていたという夢からきたペンネームである。フロイトのこの論文はとても有名になったが、その後パンケイエフ自身が他の学者とともにいわゆる暴露本を出し、その時のフロイトの研究に大きく彼の幻想が作用していたことがわかったというエピソードがある。

KGBバーの雰囲気は、「ウルフマン」初演にふさわしいものであった。パンケイエフはロシア人であったし、彼を彷彿させるような髭を生やした紳士の肖像画も壁にかかっていた。ステージにあった古いアンティークなピアノのちょっとチューニングの狂った音も怪しさを醸し出していた。レベッカの微分音ピアノとソプラノの曲、エレクトロニクと朗読、スポークンワードなどバラエティに富んだ内容で、精神病に対する距離感や視点がそれぞれあり、それが面白かった。そもそもそのイベントのコンセプトは、精神病というちょっと敬遠されがちなトピックをオープンにすることによって、そのステレオタイプを超えて向き合ってみよう的なものであったので、いい結果に終わったと思う。心に残ったパフォーマンスは、自らも神経症を抱えるという心理学者によるプレゼン形式のもので、自分の抱えている症状を笑い飛ばすかのようなスピーチを弾丸のように行なっていた。

心の闇は結構深く、一つ間違うと病んでしまう可能性があるのだろう。精神疾患の種類や病名も実にたくさんあり、人は誰でもそのうちの何かに属するともいう。実は僕も一度だけ若い頃精神病院にいったことがあるが、そこにいた患者さんたちの表情を見て、僕が行くところではないと思ったことがある。しかし、そういった疾患などを、脳の多様性とポジティブに見て、それを上手にマネージメントしていくことがベストな対処法につながっていくことなのかもしれないと思う。

もくのあきおは、ニューヨークを拠点に電子音響を中心に活動する音楽家。

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