ニューヨーク特派員報告
第196回

対立を超越するスピリット


科学は日々進歩し、これまでの理論が覆されたり、またその理論が否定されたりを繰り返し、人々の考え方も、時代によってコロコロ変わる。例えば、昭和の終わりの頃や平成のはじめの頃は、天皇を否定することが(ある意味日本での)言論の自由を感じさせる風潮もあったけど、平成も終わろうとしている今は、全然違う。国家神道に利用された現人神のトラウマも世代交代でなくなり、ひたすら平和の維持に勤めている姿は、現在の政権の強引な姿勢とは対照的ですらある。

たまにだらだらとYouTubeで「朝まで討論会」なんかみちゃったりするのだけど、たまたま30年前の昭和63年に放送された「これからの日本はどうする?」みたいなテーマで、野坂昭如(作家・2015年没)、黒木香(AV女優)、池田満寿夫(芸術家・1997 年没)、大島渚(映画監督・2013年没)、舛添要一(作家のち19代都知事)、猪瀬直樹(作家のち18代都知事)、や、小田実(9条の会呼びかけた作家・活動家・2007年没)などのバラエティ豊かな人々の発言を興味深く聞いていた。先日、入水自殺した西部邁氏(保守派言論人)への追悼として誰かがアップしたものであった。

たくさんの外国人留学生も、その場に招かれていて一人のビルマからきた若者の天皇制に対する発言が、野村秋介(民族派右翼・1993年自殺)に火をつけて、日本の事情をよく解っていない外国人にムキになる論客ぶりに司会の田原総一郎が「それは違う!」という一幕を見て、考えていた。すごく大雑把にいえば、社会には常に対立する2つの考え方があるわけで、討論とは、書いて字のごとくアグレッシブなのだけど、根底に自分のことが正しいという自信がないとあんなにムキにはなれないのであろう。

今、アメリカも2極化が進んでいるわけだけど、それは今まで目に見えなかった保守派の動きが表面化してきているというもがある。トランプが大統領になったパニックから1年、それでも気分が絶望的にならないのは、だいたいのメディアは政権に批判的な態度を貫いているし、自分を取り巻く環境はそもそも移民だらけだからだ。とはいえ全米で30%以上は支持しているわけで、ニューヨークでもちょっと外れの方へ行くとトランプ支持者をチラリも見かけたりもする。

この2つの対立するイデオロギーの危険なバランスは、日本やアメリカだけでなく、どこの国にも見られるけど、根底には急速に発達したグローバリズムによって起こった歪みの犠牲者となった労働者たちの怒りもあるのであろう。確かに、職がなくなるなど死活問題に陥っていれば、思想もへったくれもあったものでは無くなり、実際に生活を豊かにしてくれる政治家を支持する心情は理解できる。しかし民族的なことに優劣をつけるような思想も混じってくると、それは危険だ。

今年の正月にとある社会派コメディアンが「朝まで討論会」で、東大の憲法学者に怒鳴られる一幕が物議を醸し出した。専門家が、素人を相手に説明もせずに相手を否定する態度に問題があった。確かに大学教授がコメディアンに「知らないことを恥じろ」みたいにムキになっている姿は大人気なく見える。そういった威圧的な権力的な空気は、自由な発言をすることに対してマイナスに作用し、ひいては居心地の悪い社会をつくりかねない。後日、社会学者の宮台真司は、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出して、知らないことを知っているそのコメディアンの言動は勇気のあることだと讃えていた。

コロコロと変わり続けて行く世界であっても、人間の根本はあまり変わっていないと思う。歴史は繰り返しているわけだし、科学の進化の恩恵を受けていても、人間の脳は、三千年前と然程変わりはなかろう。そういう流れから、「そもそも」という感じで物事を捉えれば、対立する意見は包括できるものであるのではなかろか。禅の世界に「無分別智」という言葉がある。主観的に物事を区別しないことで、世俗的にいう「知識」を超えた絶対的な「知」だという。「正しさ」なんて曖昧で抽象的な思い込みで、いがみ合うことが一番無意味なのではなかろうか。僕らはもっと自由であるべきだ。

もくのあきおは、電子音響音楽の作曲やノイズバンドなどに参加している。たまにメディア・パフォーマンスもする。

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