ニューヨーク特派員報告
第184回

深い傾聴から生まれてくるもの


2016年は、信じられないくらい多くの音楽家がこの世を去った。あまりにもバタバタと他界していくので、連鎖かと思ってしまうくらいだ。1月にデビット・ボウイやピエール・ブレーズの訃報にも驚いたが、11月のレナード・コーエンやポーリン・オリヴェロスの訃報もショックであった。とくにオリヴェロスは、周囲に関係のある人間も多く、また僕も作曲家としての彼女の発想にインスパイアされた人間のひとりであるので、今一度ここで、その独特の音楽観に触れてみたいと思う。

僕オリヴェロスは、ブルックリン大学で4年ほど前、ワークショップを行った。その時、ソニック・メディテーションをみんなで実践して、癒しの効果もあったのであろうか、大変楽しかったことを記憶している。彼女は、ディープ・リスニングの提唱者で、「音を聴く」行為を意識的に行うことに重点をおいたスタイルが特徴である。それには、音をイメージし、それを記憶したりもすることも含まれる。ソニック・メディテーションは、そうやって周りで同時に音を奏でる演奏者(素人可)の間で音のエネルギーを介した瞑想的状態で音楽を作っていく作品である。その参加者はみな音楽部の生徒たちであったので、洗練されたハーモニーがその室内に漂っていた記憶がある。お互いに反応しあって構築されていく音楽なので、つねに変化しつづけていて、それはハイゼンベルグの不確定性原理の具現化のようであった。

現代音楽の世界では、ケージの『4分33秒』以降は、顕著に、音楽を聴くうえでの「聴取」という概念が大きく変わってきた。そういった音楽を鑑賞するにおいて、聴衆の意識も作品を完結させるために重要な要素となってきたのだ。コンサートホールで演奏されるものだけに留まらず、ドアの軋む音や、車の行き交う音、はたまたオーディエンスの咳まで、作曲者の意図としてオーガナイズされたものであれば、それらは音楽となりえるのである。オリヴェロスは、その聴取の概念を内的なものにむけ、音楽の持つスピリチャルな面、或いは儀式的なものに焦点を当てている。

ニューヨーク出身の作曲家、ラビ・キタッパの作品で『デカンテーションIII』というものがある。3つのグループがシュルティ・ボックスやiphoneなどでそれぞれの持続音を鳴らしながら、街を練り歩くというもので、僕は2年連続参加した。去年はクイーンズ、今年はブルックリンのレッド・フックというエリアで行われた。練り歩く段階で3つグループは2度それぞれの組み合わせで遭遇し、その時にそれぞれの持続音はハーモニーとなる。今回は、もちろん、他界してしまったばかりのオリヴェロスに捧げようということで、摂氏0度の冬至の夕方に、空のひろいまだ都市開発がはじまったばかりのエリアを練り歩いた。冬の冷たい空気の中は、視界だけでなく、音も伝達もクリアーだ。それは僕に、5年前に訪れたインドのニュー・デリーでの既視感を蘇らせた。

この『デカンテーションIII』は、まさにディープ・リスニングの概念を応用した作品だといえる。街を練り歩くそれぞれのグループの奏でる持続音の音量はそれほどでもなく、周りの歩行者が振り向く程度のレベルであるので、街の音との絶妙なコンビネーションが楽しめる。全ての事象は、反応しあって変化しつづけるから、当然、持続音を奏でながら練り歩く行為に対するリアクションもそこにはあるであろう。時間軸だけでなく、ジオグラフィカルにハーモニーが移動し続けるというイメージは、実現不可能な音像を想像上で完結させることもできる。また、形式としては、演奏者と鑑賞者という対立した構図はなく、演奏者が鑑賞者というのが儀式的で西洋音楽の制度的なものに対抗する姿勢もオリヴェロス的である。

オリヴェロスはモートン・スボトニックとともに、サンフランシスコ・テープ・センターというアメリカの電子音楽の歴史において重要な意味を持つ場の創立者であり、そこでテクノロジーを介して、音を聴くことについて新しい解釈を発見した。「聴く」ということから生まれる創造の可能性を徹底して追求し、それを音楽に反映してきたオリヴェロスに学ぶことはまだまだありそうだ。

もくのあきおは、ニューヨーク市立大学大学院ブルックリン校で、電子音響音楽の作曲を勉強しつつ、ノイズバンドなどでも活動している。

http://www.akiomokuno.com

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