ニューヨーク特派員報告
第141回

ああ玉杯に花浮けて


先日、芸術分野での修士課程(Master of Fine Arts)をやっと修了し、8年ぶりに卒業式にもでた。日本では高校中退である僕は、もう12年働きながら大学に通い続けている。仕事と勉強のプレッシャーのなかで、折り合いをつけていくことは容易ではないが、微妙ながらも進歩が自分の中で感じられる喜びは、ある種の快感にもなっている。 今年45歳。アメリカの大学検定(GED)を取得しようと決意したのは33歳の時である。

2001年9月10日の夜、翌日から始まる学校のことを考えて僕は興奮して眠れなかった。結局、その翌日は飛行機がビルに突っ込んだビルが崩れてその校舎は2ヶ月ほど使えなくなったのだが、授業はその翌週から始まったと記憶する。生徒はあたりまえだがアメリカ人ばかりで、マリアン先生がずっと教えてくれた。二人きりの時や課外授業もしてくれた。試験は一度スベったけど、2度目の半年後に受かった。この「特派員報告」は、確かその年から書き始めているので、ちょくちょく僕の学生体験の詳細が記されている。

その後、GEDのクラスをとったコミュニティ・カレッジにそのまま進み、一般教養(リベラル・アーツ)を勉強した。そこは、働きながら勉強している人がほとんどで、苦しみを共有でき、それが励みにもなった。みんな労働で疲れた後に机にしがみつくのだ。そこにいる学生たちのモチベーションは、自分の生活水準をあげることである。「教養を身につけ心を豊かにする」といった余裕はなく、まさに労働者生活から「這い上がる」ためというもっと切実な空気があった。米国は、学歴社会で統計を見れば生涯収入の差はえげつなく、そもそも貧富の差が激しいからまったくフェアではない。(一方、実力があれば這い上がることも不可能ではないことは、ジョブスやスピルバーグが証明しているが、かなりまれである。)

80年代に、豊橋の塾教師の子供が高校を中退し、自宅で勉強して東大へ入学したというケースが話題になりドラマにもなった。それに触発された僕は、大学院で修了できたら「高校中退はアメリカの大学へ行こう!」という本でも書こうという構想があった。似た境遇にある人にアメリカの大学というオプションもあるといういい例になれたらという気持ちからである。そもそも英語が全くわからないのに(学力は中卒級)渡米してきたところから始まっているので、他の留学生とは違いスタートレベルは低い。そんな経験は、一般的留学本とは違うものを求める読者の需要に答えられのではという発想である。

かなり大雑把に辿った道筋(19年)をもとに、マップしてみるとこうだ。
語学学校で学生ビザをとり入国、国民背番号をとってバイトをさがす —>バイトはできるだけ長くまじめに続け信用を得てビザ(できればグリーンカード)のスポンサーになってもらう —>グリーンカードがあれば授業料は安くなるし、学生ローンも可能になし、合法的に仕事につける —>GED(無料)に合格するー>コミュニティ・カレッジ(学費が安い)—>仕事がなくなったら失業保険を利用して一気に単位を稼ぐー>4年制大学 —> 就職 —>大学院。
もちろんこの過程は、ずっと働きながらなので、時間はかかる。 

上記のマップと同じ道程をたどるには運も関係してくるので誰でもあてはまるマニュアルのようには行かないかもしれない。学校を卒業することは個人的な達成であってキャリアのはじまりに過ぎない。しかし、そこから得るものは体系的知識に加えいくつかあることに気づいた。例えば、 目標を達成した経験は自信につながる。それは何かに挑戦した時、無理的状況の打破で威力を発揮するし、さらに高めのハードルにもぶち当たっていく心意気の礎にもなる。

学生していることで、自分の年齢で違和感を感じたことは一度もない。クラスにはいつも僕より年上の人が一人くらいいたし、米国ではよくある光景のようだ。去年、掃除をしながらコロンビア大学で学位をとったガッツ(52)は、同じビルで働く仲間である。世界中のテレビ局が取材に来て、スーパースターのようであった。(http://matome.naver.jp/odai/2133700378571397701)ガッツが本を読んでいる姿は二宮金次郎のようでかっこよかった。「幸せはポケットの中でなく、心のなかにある」というのが彼のモットーらしいが、僕もまったく同感である。

もくのあきおは、ニューヨーク市立大学機構大学院修了。秋から作曲で再び同校で修士課程を始める。Elecroputasというノイズバンドに参加しており、近々4枚目のアルバムがリリースされる予定。

www.myspace.com/spiraloop

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