ニューヨーク特派員報告
第137回

日本的共感覚


共感覚(シナスタジア)とは、人間の五感の錯誤によって生じる刺激のことである。つまりある音を聞くと特定の色を感じるとか味を感じるとかといった特殊な知覚現象のことを言う。その現代的ともいえるアーティスティックな感性をテーマにした東京都現代美術館(MOT)で行われていた「アートと音楽」と題された展覧会とそれに連動して行われたイベントに今回は足を運んだ。

アートという和製英語は、芸術という日本語に訳されることがある。音楽というミュージックの日本語訳は、その芸術に包括されることもあるわけだが、アートというとそれは区別されたものと感じてしまう。僕はMOTで出展された作品やそのコンセプトから、これらは最近アカデミズムの中でも頭角を現し始めてきたサウンドアートなる分野についてのものであるとみた。サウンドアートとは音という現象を、構造的に分析・発展した音楽と区別し、より哲学的なパースペクティブから構築しなおしたアートであると解釈している。

まず驚いたのは、その人気であった。チケットを購入するのに30分程待たねばならぬ程の列で、坂本龍一らの作成した音響茶室にはいるにいたっても30分程待たねばならなかった。セレスト・ブルシエ=ムジュノの水面を浮遊する陶器達の奏でる不確定性の音楽の泉にはじまり、武満徹がグラフィックデザイナーとコラボした図形楽譜、「ピアニストのためのコロナ」にいたるまで実に幅ひろく、しかも誰にでも伝わりやすく解りやすいキューレーションであった。展示物であるから、観るに耐える作品でなければならないわけである。パウル・クレーやカンディンスキーとジョン・ケージの楽譜などと同じエリアで展示するあたりなどは、いかにも美術館らしいという印象であった。

音楽は、非物質であり、時間や空間という要素なしには知覚しがたい一方、彫刻や絵画は、物質であり時間や空間なくしてもその作品自体に大きな意味をもたせられている場合が多い。かつてから、演劇、芸術、音楽は、互いにインスピレーションを与えながら違う媒体に翻訳、表現されてきた。また、楽譜は作曲家が演奏者に筆記で音を指示するものであり、共感覚的に言えば「グラフィックな音」という見方もできる。そしてバリエーションをつけながら繰り返されるパターンはリズム、色彩はハーモニーという「視覚で感じる音楽」でもあるともいえるわけだ。

このアートと音楽をテーマとしたイベントは、「共感覚実験劇場」と題されて東京芸術大学の生徒の作品展とも連動していた。ひとつは、上野にある大学の美術館地下で、もうひとつは、北千住にある音楽環境創造科のキャンパスであった。音楽環境創造科のコンサートでは、自作の電子楽器を使った作品、オンド・マルトノというアナログな電気楽器、 図形楽譜をチューバやコントラバスなどの重低音系楽器のみでのの演奏もなかなかのものであった。

何よりも、この日の最後に行われた木版画作成と上に記した楽器演奏による即興は、心に響いた。ライブペインティングという演奏に合わせて、画家がその肉体を駆使して大きなキャンパスに色彩を撒き散らすパフォーマンスは知られているが、これが木版画という点がいかにも日本らしい。3つの小さな舞台の上にそれぞれが、その場の空気に反応し合いながら音を出し、作品をほり込んでいく。オーディエンスは、演奏者や彫刻家の周りを自由に動き回りながら同時進行していくその空間の変化を感じ取っていく。増幅された彫刻刀が木を削るサクサクした音、削られたばかりの木の匂い、それらに呼応する重低音や電子音、それらを感じ取っていくオーディエンス。時間と空間、クロスオーバーな感触などを体験の共有は、現代人の中でうまれつつある新たななる感性を意識したものであったといえよう。

10年以上毎年、日本とアメリカを往復していて、最近顕著に感じるのは日本独特の空気感や音である。満員電車やネットカフェなど人口密度が高い場所での空気音、下町の裏通りの静けさ、新幹線の中の静かさ。木造建築のなかで暮らしつづけ、発展してきた日本語の響きも、音量的に英語、ラテン語、中国語と比べ静かに感じる。今回の東京のソニックアートのイベントを通しても、そこに日本人のもつ音に対するセンシティブな感性を改めて感じたのであった。

もくのあきおは、1994年から、ニューヨークを拠点に活動している自称ノイズ音楽研究家。大学院にてメディア・パフォーマンスなどを実践しながら、バンド活動もつづけている。

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