ニューヨーク特派員報告
第136回

ヴィト・アコンチ


「情報の審美学」というなにやら意味ありげなクラスをとったその訳は、そのインストラクターであるヴィト・アコンチが著名な芸術家であるからだ。パフォーマンス・アートなる分野が彼を語るのに欠かせない真骨頂であるが、その代表として1971年「苗床」という作品がある。それは、アコンチ自体はギャラリーの床下に潜り込み、そこで自慰行為をし、その音(声?)を上の空間で観客に聴収可能にするといったものである。私的空間と公的空間の反転により、その定義を浮き彫りにするといったコンセプトであるようだ。そういった関係性や状況確認というのが、彼の一貫したテーマらしい。なぜマスターベイションであったかというと、種を出すために自身が興奮するという行為で自分の肉体を媒体化する必要があったらしい。

アコンチ先生は、ランドアートやヴィデオアートなども手がけており、多作で多彩な活動をしている。マルコム・マクラレンと同じくシチュアシオニズム(状況主義)からの影響の濃いポストモダン的な芸術家に迫ることができるのは、とてもいい機会であった。

72歳でも彼は多忙であっちこっちに飛び回っている。大型台風サンディの影響もあってだが、授業は合計で10回にも満たなかった。授業といっても、基本的に抜粋されたアートの概念、現代思想などの読み物をベースに生徒が何かを表現し、それについて(もしくはそれ以外も)ディスカッションするという形式。アコンチ先生はあくまでモデレーター的スタンスで、あまり自分自身の事は語ってくれない。先生のファッションは、黒で統一されており、とても優しい(あやしい)おじいさんである。語る時はどもり、断定のあとに訂正を繰り返すというパターンで話を進めていくのが彼独特のスタイルである。それは、彼の文章においても共通している。

自分の経験を多く語ることもなく(本当は、も少し聞きたかった)、出欠もとらず、宿題もボランティアで、まったくプレッシャーのないクラスであった。パフォーマンスに限らずアートやポエトリーなどを専攻する生徒もいたので、ディスカッションは多岐にわたり脱線することのほうが多かったがそれはそれでセレンディピティ的な直感になった。デジタル世代の創作感覚や、あらゆる方向からの視点を理解するのにいい機会でもあった。

最初の授業は、ギャスパー・ノエの「エンター・ザ・ボイド」という強烈な映画の鑑賞であった。東京を舞台にしたドラッグものであるのだが、映像表現が斬新である。本人目線の映像、 意識の視覚化 、人間の記憶のフロー(時間の経過)の表現、ラブホテルの換喩的描写などが効果的に織り込まれている。最後にある巨大に拡大された膣内で動くペニスのグラフィックスには笑った。性の描写は、生命エネルギーのアレゴリーにほかならない。音響効果も、体内音と外部音、空間を通した音などを用い疑似体験的に感じられる作りになっていた。 人によっては、吐き気がして、退場したくなるような映画かもしれない。

クラスは、生徒のパフォーマンスを元にディスカッションを進めていくのだが、パフォーマンスが終わったあと、きまってしばらく沈黙がある。拍手はない場合が多い。誰からどう切り出すのかという様子見のようでもあるが、パフォーマーは、批評にされされる「まな板の上の鯉」状態のようだ。表現方法とコンセプトは、コメントする側のリテラシーによって違ってくるので、面白い。簡単にジャッジせず、批評を展開するのが目的である。

最後の授業も、(5人くらいしか出席していなかったが)、デビット・クローネンバーグの「ビデオ・ドローム」の鑑賞で締めくくられた。拷問ビデオに興奮する主人公の体が性器となり、イマジネーションと現実の世界を漂流する。そういった表象としての映画に隠されたメタフィジカルな記号を読み取る作業は、やはり「情報の審美学」と言えるであろう。アコンチ先生曰く、アートを教える行為は、それを視る目を奪ってしまうからしないそうだ。自分で読み取ることが、重要だということなのであろう。

もくのあきおは、ニューヨーク市立大学大学院で、メディア・アートの勉強をしながら、ノイズバンドで活動している。

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