ニューヨーク特派員報告
第124回

もうひとつの音楽


DJやサンプラーなどマニピュレートされた音がライブで聞こえてくるのは 今や、日常であるが、その始まりは、1913年、未来派、ルッソロの「騒音芸術」に端を発し、1950年代に、ピエール・シェフェールの提唱したアコースマティック音楽に始まると言える。アコースマティックは、具体音楽の部類に属し、録音された音の再生で,つまり、その音の発生源が見えない状態の音のことを指す。シンセサイザーという電子の力で音を合成する楽器とともに、従来とは違う観念での音楽が作られ始めた。

そういった電子音楽の流れをくんだ音楽を、エレクトロアコーステックとも言う。直訳すると電子音響。つまり、録音された音、コンピュータ上で生成された音をマニピュレートとして作り出す音楽。それは、人間の聴覚なども科学的に分析した音響心理学なども反映した方法でもある。従来の音楽理論ではなくケージやシュトックハウゼンなどのポストモダン以降の考え方で 、つまり音そのものを成分として構築していく音楽なのである。

現代は、コンピュータも普及し、多くの人々が作曲をソフトウェアでする様になった。グラニュラー合成や、Cサウンドなどの最新の電子音も多くのシェアウエアが無料でダウンロードできる時代なので、あらためて電子音楽とかアコースマティックとかいっても大げさな感じがするかもしれないが、その昔は、シンセサイザーもコンピュータもベンツが何台も買える程高価な代物で、お金持ちの教育機関くらいにしかなかった貴重なものだったのだ。

そのせいか60年代あたりの現代音楽などのエレクトロニックを用いた楽曲は丹念に作られていると感じる。その管弦楽やピアノなどの従来の楽器とマニピュレートされた電子音との絶妙な音のやりとりが有機的で心に響きやすい。作曲家と演奏者という二手の専門的解釈で作り上げられるその世界は、スリリングでやはり芸術と言わざるを得ない。そしてそうした作品は、時代を超えコンサートで演奏され続けて残ってゆく。そして、ソニックスとしての観点からの作品も新しい音楽として登場してきた。

アルヴィン・ルシエの「私は部屋に座っている」という作品は、時間と空間感覚に訴えてくる作品だ。「私は今、あなたと違う部屋に座っている。私は、自分の喋っている声を録音して、それを何度も再生してこの部屋の共振周波数がそれ自体を増幅してこのスピーチの姿はリズムをのぞいて破壊される。云々」という3、4分くらいの文章をカセットに録音し、それを再生したのをまたカセットに録音しを何度も繰り返すと、音はすり切れた様にボロボロになり、しまいには何を言っているのか理解できなくなる。どの部屋にも共鳴する周波数帯があって、何度も繰り返し録音する事によってその周波数ばかりが強調されるという化学の実験みたいな作品なのだが、15分くらいちゃんと聴いて最終的に認識不可能な音にたどり着くと、その課程の記憶が感動に変わった。

ミニマル音楽の巨匠、スティーブ・ライヒの初期の作品で「It’s gonna rain」というのも利用している音の原理は違うが反復を繰り返しながらトランスフォームするというところでよく似ている。「It’s gonna rain」と録音された2つのテープループを同時に再生するのだが、しだいにそれがずれてくる事によってフェイズ(位相)があらわになってきてどんどんとディレイがかかった状態になり認識不可能になるにつれ反復されたアクセントがじょじょに移行してゆくビートとなる。黒人牧師のスピーチを録音したものなのだが、その躍動感が、パーカッシブでもあり、見事な音響トランスを実現している。

音響学はそういった知覚領域を広げアイデアを膨らませてくれる。紀元前600年くらいにピタゴラスが、オクターブの概念を発見して以来、音の科学は今もなお発展を続けている。デジタルという自然界の法則をいったん数字に分解してそれをさらにモニタでわかりやすく表示できる技術が普及し、あらたなる感性が芽生えつつある今日。 音を通じた更なる表現への可能性に夢を馳せずにはいられない。

もくのあきおは、サドゥーを探して、ヒマラヤ山麓へ行きガンジス河のほとりで初日の出を見にインドへ旅立つニューヨーク市立大学大学院生。現在、3月に行われるパフォーマンスのシンポジウムでのメディアインスタレーションを製作中。

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