ニューヨーク特派員報告
第110回

日系ブラックパンサー


今秋、僕は、「コラボレティブ・ストラテジー」と題されるクラスをとっている。訳すと、「共同制作的戦略」みたいな感じだ。生徒の半分は、絵画専攻、半分はインタラクティブ・パフォーマンス専攻で、構成されている。教師のマイク・コナーは、30代半ばくらいのやせ形で背のたかい 現役の芸術家。少女漫画にでてきそうな美男子で、もしぼくが、女学生ならちょっと胸キュンしてしまいそうだ。90年代以降の閲覧するもの達が参加することで完結するパティシペーション型のアートや、ニコラ・ブリオー(フランスのキュレーター)が「関係性の美学」のなかで言及している「開かれた」アプローチ等、先端系のコラボを研究してゆくのがこのクラスの目的である。

とりあえず最初のプロジェクトのコラボレーターは、軽いスピードデートの後に、ランダムにあてがわれた。 課題は、対話の印象からお互い各々作品を作り、それを最終的にインテグレートする事。出来上がってきたものよりもプロセスを重要視するようだった。共同制作のお相手は、絵画を先攻しているパム。ハーレム育ちの黒人女性で、メリーランド州の大学で、心理学で博士号を習得している精神分析医でもある。

授業の後、プロジェクトの案を練るため、彼女のアトリエへ行った。建物の最上階で天窓もついている真っ白な空間。そこで、いきなり目を引いたのは、血のしたたる生首をもったピエロの油絵。彼女が仕事で、犯罪者のカウンセリングをした時に出会った連続殺人犯のサイコパスぶりの印象を描いたそうだ。あたりに無造作に貼付けられた作品は、色とりどりのロールシャッハテスト(インクを左右対称ににじませたもの)をアレンジしたものが多かった。お互いのバックグラウンドについて語り合いながらアイデアとなる創作の接点を探った。

とりあえず僕は、パムがアメリカの抽象画家ロスコの色使いに触発された3つでワンセットのロールシャッハを楽譜とみたて、サウンドスケープをインプロバイズして編集した。画用紙の大きさを曲の長さ、対称性を空間に、色の滲みを音色へ、そして絵の発展過程を即興演奏へと翻訳し、彼女が育ち僕が今暮らしているハーレムの日曜の午後の風景音と共にミックスした。僕は、その作品と音をスタジオの片隅に陳列し、そこに生徒達を招待することでプロジェクトは完結すると提案していたが、パムはそれでは、満足しなかった。つまり、発想自体が単純すぎるというのが彼女の意見であった。

そこで、その作品にもうすこし具体的なコンセプトを吹き込む事になった。それは、黒人と日本人という人種的なものと、ハーレムというコミュニティーの共通項を発展させ、その連想を具現するという発想。パムは、リサーチの末、その連想を統合する存在をみつけだした。日系アメリカ人として生まれ、公民権運動に没頭し、ブラックパンサー党を立ち上げ差別や偏見と戦い、去年、他界してしまった男、リチャード・アオキ氏だ。そして、我々のコラボは、 彼への追悼とマイノリティへ貢献した偉業を讃えることをモチーフとした祭壇のアッセンブラージを作るという方向へ発展して行ったのだった。

プロジェクト発表の日、アトリエには、フード状にくるまれたかつてのハーレムの活気を連想させるロールシャッハ、日本人形、さつまいもを持上げた仏陀像の油絵、そして「Rest in Power」というリチャード・アオキ氏に捧げるフレーズを壁に飾った。BGMに、上記のサウンドスケープを流し、彼が生前に記した彼の自叙伝から、第二次世界大戦の頃の日本人キャンプの話しや、ブラックパンサー党をはじめるきっかけなどを読み上げるパフォーマンスも披露した。

今回は、参加型という「開かれた」アプローチにまでは、至らなかったが、プロセスを発展させるという点では、評価のほうは、まずまずであった。聞こうとする時に聞こえてくるもの、見ようとする時に見えてくるものは、常に同じではなかったりする。そうした感覚をリアリティと呼ぶとすれば、美しさや醜さといった概念的かつ主観的な印象は、自分を取り囲む環境や社会などを反映しているものだと思う。だから、閲覧者の経験によって完結できるオープンエンドな表現は、アートの意義を問いかけくるのである。

もくのあきおは、ニューヨーク市立大学の修士課程で、インタラクティブメディア/パフォーマンスなどのリサーチをしながら、ノイズバンドなどで活動している。

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