ニューヨーク特派員報告
第104回

カタチを持たない芸術


かくして、音楽プロダクションの勉強をしてきた自分は、その知識やテクニックを消化もままならぬまま、クロスオーバーな表現の追求するためメディアアート系の勉強などもしたりしている。脈略が無いようで、かぶる部分も多いので、ディレクター的な広範囲に渡る表現視野を養うには、いいのかもしれん。この春のセメスターは、2つのクラスをとっている。その一つは、「芸術プロセスと共存するコミュニティ」なるサブタイトルがつく。ジェニファー・マッコイという現役のインスタレーション系アーティストが講師。地域に密着した公共芸術の意義やあり方を考え、最終的にはそれを実践する。

街には、気づかなかったりするけど、実は無償で鑑賞できる作品が点在している。例えば、都市計画的な視点から見てもビルディングなどの建築物もそのようにデザインされているわけだし、公園に何気なく立っている彫刻やオブジェだってそうだ。此れといって目をひく訳でもないのだけど、街の外見にエッセンスを添えたり、さりげないメッセージをなげかけていたりもする。こういったアートは、美術館の中で展示されているものとはコンテクストが違うなにか象徴的なものであったりもする。

現代アートは枠を超え、相互作用を利用する傾向にあると思われる。2月にアッパーイーストにあるグッケンハイム美術館では、最近、その筋では、話題になっているティノ・セガール展が催されている。セガール氏は、英国生まれでドイツの大学で、経済を学び、その後ダンスの勉強をした芸術とは無関係のバックグラウンドの持ち主。 物質社会への問題定義なのだろうか、「カタチを残す事の嫌いなアーティスト」として知られている。ニューヨークタイムス紙にも、幾度か彼の作品についてのうんちくが語られている。そんな、彼にクラスメート達で授業の一環として突撃インタビューをすることになった。

とはいえ、現場についた地点で、僕がセガール氏に関して持っていた情報は、「キス」と題される作品(生もののカップルが実際にキスしているのを展示してあるパフォーマンス的なこと。日本でもやった事がある)程度のことのみだった。ので、問答については、ほぼ傍観者。そのやりとりから、彼の展覧会とはなんなのかという事を察していった。つまり、作品を展示するのではなく、子供、カップルや老人などの「進歩って何?」などと質問をなげかけてくる人達が展示物とされ、閲覧者と具体的にインタラクトするという。だから、そのインタビューという行為は、セガール氏とインタラクトするという彼のコンセプトの延長線上に便乗したブルックリン大学院生達のパフォーマンスなのかもしれないと後で思った。

軽いコーヒーブレイクの後、今度はグッケンハイムの地下にあるホールで、ドロシー・ハントルマンというドイツの芸術評論家による講義を聞いた。「批評とリアリティを再構築するアートの形式」についてだ。滑らかなクリーム色で統一され程よい曲線とすべての観客までもが作品に見えるような絶妙かつ、やわらかいライティング、人間工学的にも理にかなっていて、ゆったりとしたシートに、絨毯がしきつめられているそのオーディトリアムは、抽象的で難解な棒読みのプレゼンを睡眠誘発剤にかえる危険性も兼ねていた。

その講義の出口は、レセプション会場へとつながっているという粋な計らいもあった。近代建築家フランク・ロイド・ライトの設計した螺旋状になった展覧会場に、作品の全く展示されていない真っ白な壁。フロアから吹き抜けになった天井を見上げながら、そこでの作品としてのハプニングを想像した時、50周年の企画としてティノ・セガール展を行った美術館側の意図がなんとなくわかったような気がした。

芸術鑑賞は、脳を活性化させる。あたらしい刺激に触れ感動することは、世界を違うアングルからとらえる事のできる第三の目を養ってくれる。それは、音楽鑑賞にも当てはまる事で、その内的経験を重ねる事によってさらに豊かな創造性へと繋げていけるのだ。真の意味でクリエイティブであるという事がどういうことなのか、その答えに導いてくれる気がするのだ。

モクノアキオは、ノイズ/エレクトロニック系のバンドでベースを弾きながら、
ブルックリン大学大学院にて先端芸術表現の勉強をしている。

www.myspace.com/spiraloop

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