オクノ食

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第22回

しかし先日の秋葉原の事件には驚いた。なんとも言えない気分だった。あれはやっぱり昔では考えられなかった事件だと思う。現代社会の病というか…ひとつ間違えれば誰もが犠牲者だなとつくづく思う。 こういう事件が起きると悪者になるのが「ゲーム」… でもゲームは単なるきっかけに過ぎない。ゲームだけが悪いのなら、全てのゲーマーがこういう凄惨な事件を起こすということになるだろうし。ま、私自身プレステ2のバーチャル野球ゲーム「俺が監督だ!」しかやらないし(ちなみにチームは変われど監督は毎回ノムさん)、一介の鍵盤弾きが偉そうに語れないんですが…
ニュースや新聞でもよく語られていることだが、最近よく目にする無差別殺人等の凶悪事件の犯人の状況は、引きこもりがちであったり、定職につけなかったり…「将来の希望が持てず」「自分を受け入れない」社会に対する憎悪が背景にある場合が多いらしい。自分勝手に思い込んでいる場合も有るが、仕事や人間関係がうまくいかなかったりで社会に同化出来ず、自分を受け入れてくれない社会に対する憎しみをつのらせる。その捌け口をゲームに向け、そしてそのゲームの世界・ゲームの中での行為が逆に「リアル」な世界にまで拡大してしまう。これだけ無差別殺人事件が続いていて「彼らは特殊な奴らだ」「ゲームのせいでこうなったんだ」では片付けられない。
「ゲーム」を槍玉にしただけでは「臭いものにフタ」をするのと同じ、「腐ったミカンは放り出せ」的な考えじゃないだろうか?金八先生も27年たっても解決出来ていない世の中のシステムを嘆いているんじゃないかしら?「引きこもり」や「通り魔」はいずれも英語等に翻訳出来ない日本独特の事象、言語であるらしい。日本社会の根本にある【社会不安】【社会不信】【孤独化】といった病原を改善するにはどうしたらいいのだろうか? 生きていれば社会が嫌になることも多々あるけれど、自分ならそんな不安や不満を爆発させる前に周りの誰かに相談するし、友人の誰かが悩んでいたら真剣に話を聞くだろう。彼らには本当に悩みを打ち明けられる誰かがいなかったのだろうか。または打ち明けようとも思わなかったのか?今の若い人たちは、人当たりはいいけど実は心の壁が高いと聞いたことがあるが、それは深刻な状態になっているのではないだろうか。そういえば今はストレスの溜まりやすい世の中で、心療内科でカウンセリングを受けることもそれほど特殊なこととは思わなくなったが、カウンセリングを受けることが普通になってきたということは、逆に言うと腹を割って話せる人が身近にいないということかも…
気持ちが沈むような事件の報道に触れ、自分には何が出来るのかなぁと考え、その中でこんな話を思い出した。
医者の息子で音楽をやっている私の知人だが、昔反抗期に父親に「俺はおやじみたいに手の触れる患者だけじゃなく、見ず知らずの病んだ気持ちを持つ人の心を、音楽という道具で治すことも出来るかもしれない」と言ったとか。すごく感動した話だった。この世の中で、そんなふうに音楽に救われる現実がひとつでも多く増えればいいなと思い、自分の出来ることを頑張ろうと新たに思う今日この頃です。

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