ニューヨーク特派員報告
第80回

音楽とは?


「音は、人それぞれの記憶の中に蘇る。音は消えてゆくから、人はそれを聴きだそうと努める。そして、たぶん、その行為こそは、人間を音楽創造へ駆り立てる根源に潜むものだろう」  武満徹

ニューヨークシティ大学で、作曲と録音の勉強を始め、はや2年。20年に及ぶバンド活動のなか、何気に感じていた音楽の法則を、文字にして説明できるようになってきた。音楽を聞いたときの感動は、常に僕の人生を左右してきた。しかし、同じ曲を聞く度に同じ感動を得る事はそんなに無い。直接、脳内物質に訴えかけてくる感動のピークは恐らく一度だけであろう。

CDやレコードは手に触れる事の出来る物質だが、本質はそこにはなく、それを聴く事にある。音とは、目に見えないし、触れる事もできないのだ(と、またしても、当然の事を書いている)。が、この2つの媒体の決定的な違いは、アナログは再生するごとに衰退していくが、デジタルにはそれが無く、壊れるまでずっと同じ音質を保つ。しかし、ライブはその場限りだ。

またしても前置きがながくなった。が、先日、知り合いの作曲家に雅楽を基調とした日本の現代音楽のコンサートに招待して頂いた。かねてから、コロンビア大学のクルーを中心に行なわれている企画だ。和風な結婚式や、正月に神宮などで聞く事の出来る非常にサスティンの効いた笙、竜笛、篳篥やパーカッションなどの楽器を中心とした楽曲が演奏された。コンサートの前には、三島由紀夫など日本の文豪達とも交流の深いドナルド・キーン教授の「間」に関するレクチャーがあった。この「間」という概念、アメリカ人には説明しないと解らない日本文化のひとつであろう。

笙の響きは極めてリッチ。そのエキゾチックな和音からは、楽譜には記す事の出来ない音が聞こえてくる。和音とは、単音の組み合わせなのだが、実は単音の中には倍音といって、幾つかの音が重なって音色というものが構成されている。つまりピアノの「ド」の音とクラリネットの「ド」の音が同じピッチでも、違う音に聞こえるのは、この倍音に起因するものであるといえる。このことから、「ドーーーーー」とロングトーンで演奏されると、その倍音は聞こえてくるのであって、それが和音になるのだから、リッチで無い筈は無い。

この日に演奏された笙の独演曲は、演奏者の宮田まゆみ氏にアメリカを代表する現代音楽家ジョン・ケージが直々に書き下ろしたというもの。さすがに禅の研究をしたケージらしく実にこの管楽器の特性を十二分に引き出した/引き出させたものであった。前回みた武満の「ディスタンス」の演奏でも感じたが、彼女の演奏の存在感は、おそらく作曲家の意図を忠実に遂行しているように感じた。それは、美しい無音状態をつくりあげていた(この余韻があるから、音の存在を認識できるのである)。

そして僕の涙腺を緩ませ鳥肌にしたのが、武満の「四季」。プログラムには、四人の演奏者が記されているのに、ステージには、二人しかいない。宮田氏が小さなベルを鳴らした途端、僕の真後ろから、鳥のさえずりが聞こえ振り返ると、客席真ん中の両端に残りの二人がいた。演奏者達は、共鳴するというより、インターラクトする感じ。かすかな音があっちこっちに飛び回る。そして、日本語でなにか囁いたり、金属の高周波数をだしたり、それを他の演奏者が模倣するというもの。もともとは、図面楽譜であったらしく、実に空間というオーガニックな音響を感じた。かつてみた、20のスピーカーから、バイオリンのエフェクトをちりばめるブーレーズの楽曲とは、ある意味対照的。いかにも西洋と東洋の違いの本質を感じたのであった。

ライブやコンサートから得る感動は、一人で聴いている時の音からくる感じとは違って、空間のバイブというものがある。音とは、空気の振動なくしては有り得ないというリアリティをもってみると、真の素晴らしい音は、一度だけしかそこに存在しえないんだ、と言う事をその「四季」の演奏(パフォーマンス)から感じた。

ここ数年のサンプリング技術の進歩で、随分簡単に、すごい音が作れるようになった。シーケンサーソフトの使い方が解るだけで、たった一人でも、バンドサウンドがつくれる。しかし、最近、僕はそれを退屈に思う。減衰しない音なんて、永遠の命をもつサイボーグみたい。音は、消えてなくなってゆくからこそ、感じる事ができると思う。必ずそこに存在し得ないからこそ、素晴らしい音楽にめぐり合える喜びがあるのだ。

モクノアキオの参加するElectroputasは、12年に及ぶバンド活動に於いて、はじめてニューヨーク州の外(フィラデルフィア)でのライブを今週末に敢行する。www.myspace.com/spiraloop

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