ニューヨーク特派員報告
第76回

クラシック界のジャニーズ


僕の暮らしているシティカレッジはアメリカで一番古い公立大学で、創設者は、江戸幕府が開国してから初の米国大使のタウンゼント・ハリス。たまに図書館には、当時の日本の絵とか展示してあったりする。その因果からなのか、音楽科は日本人留学生が多く、一時、公用語が日本語になりかかってた事もあるくらいだ。学期中は、築100年以上のお城のような校舎の1回にあるホールで、生徒や講師達による沢山のコンサートが行なわれる。今回は、なかなか興味深い演奏会があったので、それをレポートしてみたいと思う。

このコンサートのコンセプトは、3人のピアニストによる異なる解釈にスポットをあてている。つまり、クラッシック系と現代音楽系とジャズ系というまったく違った視野を提示し、そして融合を試みる集い。ジャンルも人格もちがうピアニスト達が、夏休みの間にデビット・デルトレディッチという著名な作曲家の教室でワークショップをひらき、それぞれが曲を演奏したり、楽譜を見ながら曲だしをしたりした成果を披露したわけだ。僕もなんどかそのワークショップに顔を出した事があるが、この3人(ちなみに全員ジャパニーズ)は美しいくらい仲が良い。誰ひとり彼女もいないようで、よく一緒に寝泊まりとかもしているようだ。24時間以上一緒にいたこともあったようだ。

このトリオがこれに至る伏線を僕は知っている。メンバーの一人の卒業記念コンサートで、3人で、ジョン・ケージの用いた偶発性を即興として実践しようとしたのを目撃したのだ。ピアノを弾く筈が、突然、唄をうたいだしたりして、実験精神から派生したその音楽外のバイタリティからお固いコンサートのイメージを打破していた。皆、ハンサムなので、陰で「イケメントリオ」とも囁かれている。歳の頃も「スマップ」よりは、ずっと若いし、クラシック界のアイドルになりうるのだろうか!?

演奏会の一発目は、バッハのフーガをバロック調、ロマン派調そしてジャズ風にそれぞれがアレンジして、アプローチの違いを表現。バッハの時代は、セブンスは不協和音と考えられてたし、一時的な内部転調なども用いていなかったので、ジャズ調のアレンジはほとんど原型ととどめていなく、むしろ現代音楽風にすら聞こえたのが印象的であった。

その後、12音作曲法でつくられたウェーベルンや、音楽理論の教授の曲、などを淡々とこなし、最後から2曲目には、ベートーベンのピアノソナタ21番第一楽章を、3人で分担して演奏した。ソナタ型式は、序奏、提示部、展開部、再現部、そしてコーダ(ベートーベンの場合これが異常に長い)によって構成されており、それらの区切りで演奏を交代。次の演奏者が、その次の演奏者を追っ払うまるでドタバタ喜劇の様な大袈裟なパフォーマンスが会場をどっとわかせていた。通常有り得ない光景を、意図的に導いたとみる。

最後の1曲はピアノの三重奏。ステージにはグランドピアノは2台しかないので、1台は2人の連弾で行なわれた。曲は松浦欣也という現役の作曲家の「般若」という吹奏楽の曲を、ピアノ用にアレンジしたものだ。日本の民謡や、和風ペンタトニックが、ちりばめられていて、変化に富んだダイナミックスのある曲だ。徐々に音がでる吹奏楽器と違い、ピアノは打楽器としての要素もあるので、音をだした瞬間にピッチが、空気振動する。オリジナルの演奏と比べると全く雰囲気の違う曲になってた。むしろモチーフひとつひとつがはっきり聞こえて来て、和風な旋律が浮き彫りになっていた。

コンサートの終わった夜は、大学のすぐ近くに住むメンバーの半地下のアパートで、ジャズボーカル専攻の酒飲みの韓国ギャルとか交えての打ち上げに誘われ顔を出した。豚キムチとかもやし炒めとかで、にごり酒や、韓国の焼酎をのんで、踊ったりしていた。「般若」のオリジナル聞き直して、もう一度盛り上がったりしている姿に、トリオの音楽への愛を感じずにはいられなかった。

音楽学生に突きつけられた現実は結構シビアだ。企業が、音楽専攻の人材を募集しているところなどほとんど無いし、その関係に就職できるという話もあまり耳にしない。でも、音楽に対する情熱や探究心が、音楽学生の不安や苦労の支えになっていて、その現状はジャンルを超える。今回の「イケメンズ」のコンセプトは、この現状打破の突破口になりうるのだろうか!?

モクノアキオが参加するノイズバンドの前回のライブはクラリネット奏者を交え、オーネットコールマン的宇宙和声の概念を取り入れた演奏を日曜の夜にぶっ放した。木管楽器の倍音は、地球上の生物としての己の本能に作用することを認識させらるのであった。www.myspace.com/spiraloop

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