ニューヨーク特派員報告
第72回

作曲法の可能性


「音楽を聴き、終わった後、それは空気中に消えてしまい、2度と捕まえることはできない」エリック・ドルフィー

空気のある所に音は存在し、そのバイブレーションは我々の「ココロ」に響く。聴覚によって、目で見ることが出来ない空気中の波形が、同時をリニアーに展開して織りなすドラマを感じることができる。音は空気中の粒子に振動を伝え、それが我々の鼓膜に到達して脳内に送り込まれる。

もともと、エジソンが蓄音機を発明する19世紀末まで、録音するという技術はこの地球上にはなかったので、楽曲は、譜面として保存され、演奏家達によって再現されていた。従って、(西洋の)作曲家達は、音楽理論を網羅することを必要とされた。かたや、そういった「文明の利器」の発達の無かった地域では、音楽は人から人へと引き継がれていった。

音楽理論を学ぶ中で、いかに調性のとれた音楽が誕生し、変化し、崩壊したかという、「流れ」を知った。そして、調性音楽に「調教」された自分の受容体としての「耳」からの脱却は、作曲に対しさらなる可能性を与えてくれることも学んだ。つまり、マイナーコードは悲しい響きとか、不協和音は不安な気持ちになるとかは、我々が育ってゆく上に、植え付けられた感覚で、人間が生まれながらにして持っている感覚ではないのだ。そんなアンチ的な視点から新感覚としてのハーモニーを構築したりもした。

自然界に存在する音、もしくは生楽器のピッチなど、我々が聞き取れる音は、基音といって、その中に含まれているうちの一番低い音で、その上に倍音という上音が重なり、それぞれの音色を構成している。(同じCでもピアノとクラリネットでは音色が全然違うのは、この倍音のバランスの違いによる)つまり、ピアノでCをポーンと鳴らしている中には、実はA#やDなどのハーモニクスもかすかに含まれている。この理論から考えれば、不協和音という考え方は、おかしいということになる。

20世紀初頭に生まれた12音作曲法は、この考え方が土台となっている。従来の機能的なコード、メロディー進行の考え方を、一掃して、1オクターブの中にある12音(C,C#,D,D#…..)を番号に置き換え、そのピッチの距離としての組み合わせから、相対関係を割り出し、音程の動きに一貫性を持たせ、曲を組み立てる。この方法で、作られた曲は、一聴(調性音楽に調教された耳で)では、気の狂った様な音楽に聞こえる。(演奏者には高度なテクニックが必要とされるが、)バッハの平均律から200年たらず間に、作曲家達は試行錯誤を繰り返した挙げ句、その束縛から解放する方法で、作曲法自体に革命をもたらしたのである。

そんな調性音楽の葛藤から、60年後には、音楽再生機器は、一般家庭に普及しより多くの人々が録音編集された音楽を親しめるようになり、そして現在においては、それはよりパーソナルなものになった。たった10年で録音媒体も磁気のテープから光学のハードディスクへと発達し、今まで、目に見えることのなかった波形をモニターに映し出し、編集できるようになった。音の視覚化と、シュミレーションは、作曲の可能性をさらに広げた。そして、誰でも、誰かの音楽を楽しむみたいに手軽に、自分の音楽を作れるようにもなった。

コンピュータの情報処理の計算能力のスピードが増すにつれ、今まで有り得なかった音を構築もできるようになってきた。例えば、物理モデルのソフトシンセ。生楽器の原理を、振動させる部分、共鳴させる部分、そしてその振動を妨げる部分に分類し、それぞれの数値をモジュレートしたりすることによって、「咽び泣く様なピアノ音」とか、「弦楽器の響きをもつ金管楽器の音」とか、エフェクターでは、作れない不思議な音色を組み立てることができる。

つまり、無限に近く存在する選択肢のある現在において、作曲家たちに求められるのは、ある素材をいかに調理するかではなく、何をどのように作りたいかということの方が重要になってきているのでは無いかという気がする。数えきれないオプションのなかで、それを見つけ出すことも大切だが、なにを表現したいかというビジョンをはっきり持つことが、作品に意義をもたらすことに繋がると思う。空気中に溶けた音楽を再構築するのだ。

もくのあきおの参加するニューヨークノイズバンド、エレクトロプタスの新作は録音から編集まで、全てアナログで進行していて、先日、共同制作者のラリー博士は、手動のフランジングによるミックスを成功させ、無秩序に乱反射する発狂音に「ゆらぎ効果」を与えた。www.spiraloop.com

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