ニューヨーク特派員報告
第40回

はや10年


はや10年この間の9月23日で、僕は、ニューヨークの住民になって、まる10年が経った。考えてみれば、色んな事があったけど、まさかここに住むなんて24歳の時に、ここを訪れなかったら、あり得なかったろう。という事で、今回は、渡米生活十周年を記念して、ここに至った経緯を、サマライズしてみよう。

12年前に、僕は6年間続けてきたバンドに一旦、終止符を打った。それまで、バンド以外ろくな事をして無かった自分は、いきなりポカンと生活に穴が空き、虚無感に襲われる事を恐れて、風の噂であった『ニューヨークへは、25歳になる前に行くべきだと誰かがいっていた』という教えを信じ、それを実行するがごとく動いた。

16歳で家を飛び出し、バイトを転々とし、バブルの恩恵もさして受ける事無く、18歳でバンド生活を始めてから6年間全くロック以外頭に無かった自分は、同じくプータローをしている友人たちが、インドやタイなどを気軽に旅しているのが羨ましかった。なにせ、毎月のELLと東京、大阪のライブの為に、新曲を書き、週に3日スタジオに入り、昼間はバイトをしていると、他ごとを考える暇はなく、最終的には、自分の理想がプレッシャーになり、継続が困難になった。

高校時代、海外では、ポストパンクなるものが主流になり始めていた。ソニックユースや、ノイバウンテンなど、聞いた事のない変な音楽に触発され、ギターのコードを奏でるより、振り回すほうを追求し始めた。テレビジョン、ジムフィータスやリディアランチなど、自分の傾倒する音はニューヨーク発が多かった。従って、 自分の処女航海は、やはりニューヨークだと思い、周りの行った事のある知人たちを対象にリサーチし、結果、当時は非常に危ない印象のある街という事を察し、非常に緊張したのを憶えている。

1993年当時は、まだ80年代後期の不景気の影響と、ドラッグの蔓延も手伝って、ホームレスやジャンキーがうろうろしていた。1993年の6月に、僕は初めて、日本の外に出て、初めての外国は、韓国のキンポ空港(当時一番安い飛行機がアシアナだったから)。テレビに映る人々、飛行機から見下ろした町並み、すべてが日本にそっくりの様だけど、言葉が違った。ぼくは、外国人であって、それは、名古屋から、上京した時以上のアイデンティティーの消失であった。

初めてのアメリカは、すべてが大きく見えた。JFK空港、キャブ、バスに地下鉄、サンドウィッチそして人間達。目に見えるもの全てが、大きかった。初めてみたマンハッタンは、何万ものビルの明かりが空まで反射していて、スゴイ迫力であった。偶然にも、フライトの前にチャーリー(バンド仲間で、バイク事故で亡くなった)の葬式で知り合った人間と、同じホテルで、それは、コリアンタウンのエンパイアの真下であった。

結局、1ヶ月ちょっとの滞在で、帰国する決心をした。日本での生活にけじめをつける為だった。帰り際に、5年の学生ビザを申請する為に、安い語学校へ入学して在学証明書をとっていった。滞在中、誘惑にまけ、人間を少し辞めて己の魂が不在も、とても心残りでもあった。

1994年、9月23日に、戻ってくるまでに1年ちょっとかかった。あれから、十年。英語もさっぱりで、右も左も解らない外国へ移住し、自分のアイデンティティーをゼロから構築し直して、やっと最近、人間らしく生きていけるようになった。これからは、もっともっと勉強して、死ぬまでに、最低3冊の本と、歴史に名を残すような曲を書きたいと、思っている。

モクノアキオは前衛ロックバンドElectroputasのベースボーカル、CMJで10/15にニッティングファクトリーにてライブ。

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