ニューヨーク特派員報告
第18回

捨てられゆくモノ達に愛を込める


 街の建て直しや、観光客の低下などで最近ニューヨークは金欠な様で、いろいろな方法でバジェット調整している。例えば、タバコ一箱に5ドル(前の20倍)の税金をかけたり市立大学の予算を減らしたりしてる。その中でも、得にこころが痛むものはリサイクルに対する削減である。数種類にゴミを分別している名古屋の人々が聞いたら発狂しそうなはなしだが、ここはリサイクルはカン(鉄系)のみで、あとはポリ容器だろうが、ビンだろうが、お菓子の包み紙だろうが、全部一緒に捨てている。結局、再生利用するには金がかかるから当分はしないらしい。

 アメリカ特有のある種のダイナミズムは時々、無駄が多すぎる。ちょっとマクドナルドでフレンチフライを買っただけでも、20枚くらいのナプキンと10個くらいのケチャップや辛子がついてきたり、スーパーで買い物をしても茶袋の外に2重の手提げポリ袋を付けてきたりする。中華のテイクアウトにしても、凄く沢山の醤油や、スイートソースをつけてくれる。家に帰ったら捨てるだけのものばかりで、ゴミ袋は1日ですぐいっぱいになる。こうして放出されたマンハッタンの一日当たりジャイアントスタジアム一杯強のガベージはニュージャージーのどっかで埋められ強烈な異臭を放つ。

 包装は、流通の便利さ、衛生的、見栄えの良さなどが利点にあげられるけど、お目当ては中身なので購入後、一旦家に入ってしまえばそれはクズと化さざる得ない。ましてやこの狭い住宅事情では、できる限りのものをエリミネイトしない限り、脚の踏み場がすぐ無くなってしまうから厄介だけど、無駄なモノを省いていけば挙げ句の果てには何も無くなるだろう。新製品につく様々な形容詞たちは購買欲をそそるけどやっぱりすぐ飽きるし、時折うそっぱちだったりするからどうでもいい。

 有り余ったモノ、ありふれた者に有難みは感じ難く、大量生産の末価値が無くなってしまった品達は捨てられていく。古くなって役に立たなくなったmonoやアップデートされたものは、置いておくスペースが無いから廃棄する。メーカーは発展していった技術を取り入れより一層便利なのを安価で出回らせるので、どんどん循環してしまう。ある物で何とかやっていこうという哲学は、根気と努力を余儀無くされるので敬遠されがちなんて、戦後直後に育った世代からみればとんだバチあたり思考だなどとは、敗戦したことのないアメリカではあまり見られない。

 PCのデスクトップの脇にも何時もゴミ箱があり、不必要な情報は空にするけど、物質はそう簡単に消去できるはずも無く汚染はつづく。簡便さが環境を破壊してゆく証拠に人間の手が届かないような不便極まりない所ほど自然は深く豊かだ。愛しい物タチに囲まれているつもりでも、ある日すべて廃棄物に囲まれてるような気がする時もあったりするけど、環境問題に国民レベルで取り組んでいる日本の姿勢をとっても誇らしく思う今日この頃です。


作者モクノアキオは最近、大学生になりノンウエーブ以降の流れを引き継ぐ音楽活動をマンハッタンはダウンタウンを中心に(最近はトニック)活動中。www.spiraloop.comにてアーカイブと情報を発信中!


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