ニューヨーク特派員報告
第215回

アナーキー・イン・ザ・ニッポン


25年前、まだバブル経済の余韻の残った日本を僕は飛び出した。あれから色々あったけど、最近よく思う。日本は昔と全く変わってしまったと。違う国になってしまったみたいだと。全ては変化し続け、物の見え方はいろんな角度があることは普遍的であるが、楽観視できない変化が世界のあちこちでも見受けられるようになり人類滅亡の予感までしてしまう。

そんな時は歴史に目を向けてみたくなる。自分の憧れるタイプの人々は、どのように不条理な社会を生き抜いたのかチェックしてみたくなる。最近はまったのは今から100年ほど前の日本、大正時代のアナーキスト(無政府主義者)や社会主義者をテーマにした映画である。『菊とギロチン』(2018)と『金子文子と朴烈』(2019)である。両作品とも関東大震災(1923)の前後の話で大日本帝国が、ますます軍国主義に向かってゆく中、弾圧される社会主義者や無政府主義者、そして在日朝鮮人の生き様を描いた映画である。前者はインディーっぽさを残しながらも、根底に流れるメッセージが爽やか(妥当でない形容詞かもしれぬが)。後者は、韓国で製作されたものなので字幕が必要だが、役者の熱演ぶりといい、映像といいかなりドラマティックであった。

どちらの映画にでも出てくるシーンなのだが言葉にならないくらいショッキングな当時の事件は、朝鮮人虐殺である。震災後の混乱を避けるため戒厳令が出された中、当時の日本政府の通達の中に「混乱に乗じて朝鮮人が悪事を企んでいる」というところから、デマが広がり、民間人(!)が自警団なるものをつくり武装して罪もない朝鮮人をあちこちで袋叩きにしたりして虐殺したのだ。その合計数は千人以上という。(今の政府もそうだが)そういった都合の悪い資料はすぐに燃やして破棄されるので、実際の数字を出すのは難しい。

軍国主義に突っ走っていた当時の政府は、思想も取り締まっていた。無政府主義者や社会主義者もこの時、たくさん殺害された。有名なアナキスト、大杉栄と伊藤野枝もこの時期、憲兵に虐殺された。彼らは両方とも作家であったため、文献もいくつか残っていて瀬戸内晴美が彼らについての物語なども出版しており、映画の題材にもなったりしている。『蟹工船』で有名なプロレタリア文学の小林多喜二も憲兵の拷問によって殺された。また、社会主義者であった幸徳秋水は、大逆罪(天皇の殺害を計画した罪)の濡れ衣をきせられ死刑になった。

無政府主義や社会主義は、そもそも国家ではなく民を中心に考えており、当時、富国強兵をかかげいていた政府にとっては面倒な思想であったはずだ。民衆のためを考え立ち上がろうとしていた思想家たちを徹底的に取締り、思想の自由を束縛することで民衆を骨抜きにし、国家神道、天皇万歳の大日本に洗脳していった。今から考えればとんだ恐怖政治である。

警察や軍隊は国家の暴力装置(社会学用語)。国家とは、政府中枢近辺の人間のことであり、その暴力の前では民衆は徹底的に無力だ。今、香港で起こっていることをみればよく分かる。警察や軍隊も市民であるには変わりないのだが、国に雇われている労働者なので、ボスの言うことに従い、同じ民衆を暴力で抑え込んでいる。こういった内紛、紛争、はたまた戦争でボロボロになるのはその徹底的に無力な民衆に他ならない。

1976年にセックス・ピストルズは、『アナーキー・イン・ザ・UK』で権力にツバを吐きかけ王室を批判した。80年に和製パンクバンド亜無亜危異(アナーキー)は「何が日本の天皇(昭和)だ。何にもしないでふざけるな」と叫んだ。権力を否定し制度を破壊したいという欲求を表現し、それが商品化される時代であった。あれから40年、この間の『表現の不自由展』の一件から察するとまたしても多様性に不寛容な社会に向かっている気がしてならない。ここ最近になって大正アナキズムが映画化されたことは、そういった危機感からなのかも知れない。

もくのあきおは1994年にニューヨークに移住。現在、電子音響音楽を中心に表現活動をしている。

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